「危ふきは、その本を尋ぬ」は、「野口塾inとままえ」で野口芳宏先生
から教えていただいた言葉である。
私の「研究授業の準備」というのは、この言葉そのものである。
授業は何のためにするのか。
それは子どもに力をつけるためである。
それではその前提としてどんなことを教師が授業前に知っていなければならないのか。
これが、「授業の準備」のすべてである。
それは、まず第一に材を知っていることである。 |
テキストを読むことである。
まず少なくとも、30回は読む。
100回というのが修行の目安ではあろうが、私にそうした時間はつくれない。
ついでにいうと、すべての言葉を辞書でひくという教材研究の方法もある。
しかし、これを私はできたことがない。
恥ずかしい限りである。
とにかくできることは(したことは)、いつも以上に読むということでしかない。
次に、研究仮説を精読する。 |
当たり前だが、研究授業は研究仮説を検証するために行うのだ。
そこから、ぶれては、授業は良くとも、単なるスタンドプレーである。
そして、いったい仮説の実証を授業のどの部分で行うのか、行えるのか、考える。
さらに、子どもの事実(実態)把握である |
そのために私は調査やアンケートを行う。
子どもの事実を客観的にとらえようとする。
そのために数値化することが必要だ。
ときに、指導案の実態欄に「このクラスは総じて明るく、休み時間も元気に体育館で遊んで
いる」なんてことが書かれている場合がある。(私は初任者の頃、2回だけ書いた)
私は、「これは実態じゃない」と思う。
児童の実態とは、本実践でつけたい力に対して、子どもが今どのような状態にあるのかとい
うことなのである。
決して、ぼんやりとしたクラスの印象を書く欄ではないのだ。
指導要領を読む |
要するに何を教えればいいのか、端的に頭に入れておくために読む。
迷ったとき、軸を失いそうになったとき、教えたいことが山ほどあって絞りたいときは、これに限る。
「新」「現行」「旧」と比較して読むと、分かりやすい。
さらに、授業の哲学を鍛えるためには、中教審や臨教審の答申を読む。 |
当然、その時何が議論になり、何が不易で、何が流行であったのかを理解するために読む。
ここまできてようやく、発問を考えるのである。
より個性的で、精度の高い発問を創造することはもちろん大事なことである。
しかし、そのことに目をとらわれすぎて、授業の哲学(何を、なぜ教えるのか)がおざなりになるの
は残念だ。
あまり授業を創ることが、小手先の作業に終始してしまったり、発問を考えるためのものさしをちょ
いと当てれば、発問ができあがったりするようなことは原則としてはなく、やはり豊かな哲学から生
まれるのが、豊かな授業のように思う。